やさしくほほをなでる心地よい風、今にもはじけそうな桜のつぼみ、窓を開けると飛び込んでくる花粉。なんて華麗な登場なのだろう。
こんな春の便りがくると、高校時代はこれから身を置く場所に対して、得体のしれない不安に駆られていた。
期待はない。そのうえ、準備も終えられていないのに、時は無情。心が追い付かないまま、色の変わった日々に翻弄されていた。
環境の変化に難なく対応できる人、むしろそれを楽しむ人、気持ちが置いてけぼりになってしまう人、いろんな人がいる。
高校生のわたしは、心が変化に追い付けなかった。
「変化を楽しむ」
こんな言葉に何度か出くわした。
「そんな恐ろしい肝っ玉の据わった人間がいるんだなぁ。」と他人事だった。
自分と離れすぎたその言葉は頭からすぐに消える。
もがき、自分自身で鞭で打つように過ごし、そうやって春を乗り越える学校生活だった。
それが今では、どんな春にしてやろうか、と、強さと希望と期待、をもって春の便りを受け取るわたしがいる。「変化を楽し」んでる!
なんでだろう、と考えた。
きっと、人との出会いを通して、時間や季節が流動的なように、人の心や思考も流動的であることを思い知ったから。
その「変化」を恐れていたころのわたしは、「変化」がこんなにありふれていることに気付いていなかったんだろう。
もう一つの発見は、「変化の前には必ずサインがあり、背景にはストーリーがある」ということ。でもこの半分は、わたしにとって、既知のことだった。
毎年春の便りを受け取っていたじゃないか。わたしもそのストーリーの登場人物の一人。臆することなんてない。
こうやって、変化のサインに気づいたときの受け取り方が変わった。
高校生までは、怖くておびえた状態でサインがやってきて、それから目をそらしたまま時が進んでいた。
今は、自分の未熟な心を知ったからこそ、おおらかにどんと構えて、サインを両手で受け止められるくらいに強くなった。
さて、明日はどんな彩にするかな。
今週のお題「小さい春みつけた」