Thymos’s blog

さらけ出します。

「頑張らないといけないこと」本当にそう?

「頑張らないといけないこと」に日々追われて、体も心もボロボロになってから、やっと休息をとり、もう一度、の繰り返し。そんな人生。

 

だけど今は違う。

 

全力疾走を続け、過呼吸になるほどしんどくなったら休憩するスタイルを、ある出来事がきっかけで変え始めたから。

 

そもそも、なぜ、そのようなスタイルが出来上がったのか。

 

幼稚園児時代からさかのぼってみる。

 

私は小さいころから負けず嫌いだった。「やりたい!」「できるようになりたい!」という気持ちにまっすぐで、性格は内気な女の子。幼稚園の時は、一輪車に乗っている上級生に憧れ、自分も乗れるようになりたくて、園で毎日一輪車の練習をしていた。その努力が実り、半年くらいで乗りこなせるようになった。母がすごいね、と驚きと共に褒めてくれた記憶がうっすらとある。小学校では、けん玉が流行り、特に「もしかめ」のブームがあった。「もっしもしかーめよーかーめさんよー♪」という歌に合わせてけん玉で遊ぶのが「もしかめ」だ。けん玉は当時初挑戦だったが、これもできるようになりたくて、授業の間の休み時間、業間、昼休みもずっと、もしかめの練習をしていた。最終的にクラスの誰よりもけん玉が得意になったと思う。当時の担任の先生が、通知表の配布時にひとりひとりに声をかけてくれるのだが、「教科に『けん玉』があったら5段階評価中の5だよ」と言ってくれたほどだ。

さらに、父がきっかけで始めたギターにもドはまりし、コード弾きであればなんでも弾けるくらいには上達した。そして、小学校最後の音楽会の学年合奏で、ギターをやらせてもらった。緊張のあまり出だしを一拍はやく始めてしまったのだが、それ以外は問題なく合奏を終えた。先生方が誇りに思ってくださるほど、全体的にクオリティの高い合奏であったからか、観覧席からの拍手がなかなか鳴りやまなかったのを覚えている。

その後、担任の先生に「出だし失敗してしまいました…」と話したら、「周りに合わせればいいやって途中から演奏を始めるのではなくて、自分で判断できたってことがすごいことだよ」と言ってくださったおかげで、黒歴史になりそうなところを、成長したんだという自信に変わった。

この先生は良いことは良い、良くないことにはこうだから良くない、という先生だった。雨の日に廊下で数人で鬼ごっこをしていたことをほかの先生からその先生にタレコミが行き、こっぴどく叱られたのを覚えている。怖かったぁ…今思い出すだけでも動悸がする。

しかし、この先生のお言葉のおかげで、ギターに挑戦してみてよかった!頑張った甲斐があった、と思えた。

 

中学生で「頑張ればなんでもできる」と気づいた。今思えば、私は器用貧乏なんだろう。勉強、運動、作文、習字、楽器、など、苦手なことはあっても、たいていのことは難なくできた。例えば、定期テスト前は前日だけ勉強し、約90人の学年の内、5位などその辺りで勉強が嫌いじゃなかった。身体測定もずば抜けていい記録なわけでもないが、そこそこいい点。「中学生」の時点では、今より「頑張り」の量は少なくてもできるようになることが多かった。

しかし、その中でも特に熱を注いだものは部活動、合唱祭の伴奏、高校受験だ。

部活動は初挑戦のバスケ部に入り、スタメンになりたくて歯を食いしばりながら練習に励み、最終的にスタメンに選ばれるようになった。なかなか思うようにいかずしんどくて部活に行きたくないと思う時期もあったが、顧問の先生や部活の仲間のおかげで頑張りきることができた。

中学最後の合唱祭では、習っていないのに課題曲のピアノ伴奏に立候補した。(課題曲は学年ごとに決まっており、毎年同じ)中学1年生のとき、3年生の先輩が課題曲の伴奏をしているのを見て「めちゃめちゃにかっこいい!私も3年生になったらこれ弾きたい!」と憧れたからだ。

その曲は「COSMOS」で、秋にある本番に向け、ちょうど部活を引退した夏休みから毎日ピアノの練習をした。学校の音楽の先生に指導をもらいに学校に行った日もあった。人生で一番頑張った瞬間といえるほど、頑張った。

本番では、「緊張」を「今までの練習してきたという自信」が相殺してくれ、一音も間違えることなく、心を込めた演奏ができた。私のクラスは最優秀賞に選ばれ、感無量だった。

合唱祭後すぐ、学年全体が受験モードに入った。最終下校時刻まで毎日、放課後学校に残って勉強した。友達と一緒に勉強したり、先生も協力して放課後残ってくれたり、まさに「青春」の2文字がぴったりな日々だった。私はあまり覚えがないが、家族が言うには「あんたは家に帰っても毎日勉強しとった」らしい。

その努力が報われたのか、第一志望も、滑り止めで受けていた難関私立高校の学科などもすべて合格をいただいた。嬉しかった。これほどの達成感を感じたことはないというほどだった。

 

小学校の一輪車から中学の高校受験、これらの経験が「頑張ればなんでもできる」「なんでもやってやろう」というマインドを生んでくれた。

 

異変が現れたのは高校。

 

第一志望の高校に入学し、中学に続きバスケ部に入った。しかし、この高校は家から遠く、片道1時間半~2時間かかった。田舎のため、電車の待ち時間が30分から約1時間など、長かった。朝も毎朝6時起きで、あわただしく準備し駅に向かう。学校に到着するのは授業が始まる5分前。8時半に1時間目が始まり、一日授業を受ける。授業の合間の休み時間も、夜の睡眠を少しでも長く確保するために予習や課題に取り組んでいた。放課後は部活に励み、家に着くのは8時。そこからご飯、お風呂、授業の予習、課題等をすればあっという間で、日をまたいでベッドに入っていた。どれだけ早くそれらをこなしても寝られるのは11時だった。そして明日も6時起き。新しい環境、初めての電車通学、毎日部活、授業の予習や課題、それに追われながらのこの睡眠時間は私には到底足りない。週1で部活がオフの日はあっても、その日は事前にできる授業の予習や課題をやれば、自由な時間はほとんどなかった。土日祝も毎日部活。代り映えしない同じ日々、部活も経験が長い人ばかりで、どうあがいても、いくら練習しても、埋めることのできない技術の差に悩まされ、辛かった。先輩は、私の同学年のバスケが上手な人とよく話しており仲が良かった。私も上手になって試合に出たい。そう思って先輩に教えを乞うたり、挨拶だけでもしっかりするよう心掛けていた。また信頼できる顧問の先生にも出会ったおかげで、頑張れていた。それでも試合に出てる人たちを超える技術までに上達するのは難しかった。試合に出るチャンスをいただいても、「よくやった!」と褒められるときもあったが、うまくいかないことがほとんどで先輩に怒られてばかりだった。また、信頼していた顧問の先生の異動が出たのもそのころだった。

しんどかった。辛かった。どれだけ頑張っても報われない。バスケは大好きなのに。

「報われるまで頑張ってやる」

今までもそうやって夢をかなえてきたんだから。

 

しかし、そんな気持ちとは裏腹に、もう辞めたい、しんどいという気持ちも出てきていた。

十分な睡眠や、好きな漫画や本を読んだり、家族とご飯を食べながら楽しくおしゃべりする時間、何もせずにボーっとする時間、そんな自分の時間が全くない。

自分で選んだ高校なのに、自分がなりたかった高校生のはずなのに、なんで辛くなっているんだろう。何のために生きているんだろう。そんなことを考えるようになっていた。この高校を選んだ一番の理由は「バスケ部の人たちが私のように努力家な子たちばかり」と、中学のバスケ部の顧問の先生から聞いたからだ。それで、遠い学校にも関わらず、家族を説得してこの高校を受験した。

それもあって、簡単に辞めたいなんて言えない。自分で選んだことなんだから。

 

そうやって半年ちょっとが経過した。それでも苦しい気持ちは募るばかりで部活だけでなく学校も嫌だと思うようになっていた。

これじゃ本当にだめになると思い、部活を辞めようかと考えていることを家族に打ち明けた。意外にも、真摯に受け入れてくれ、一緒に考えてくれた。家族は私のバスケが好きな気持ち、でもいまはしんどくて疲れてしまっている状態から、休部する案を出してくれた。異動にならなかった方の顧問の先生や先輩である部長や、同級生の部活の仲間とも話し、放課後の練習は出ず、練習試合や試合にはマネージャーとして参加することになった。

 

これで良くなるはず、そう思った。

けれど、違った。

 

私はバスケが大好きだ。だからこそ、練習試合や試合で活躍しどんどん上手になっていく仲間を見ていると、私と同じように「高校生」をしている彼女たちは頑張れているのに、私はなんで頑張れていないのだろう、と情けなさと悔しさに耐え切れなくなった。それくらいの頃から頭痛や不眠に悩まされ始めた。頭痛は初めての経験だった。疲れているはずなのに寝付けない日がほとんどだった。学校に行けない日も出てきていた。

「バスケが好きなのに、辞めるしかないのかな。どうしても仲間たちと自分を同じ土台で見てしまうから、完全に離れないと、割り切れないのかな」そんな風に思うようになっていた。

 

 

「休部」し始めて一か月が経ったころ、週3ほど学校を休むようになり、家族に相談し、苦渋の決断だったが、辞めることにした。

 

土日と月曜日と、火曜日もだったか、記憶が定かではないが久しぶりの学校に行き、異動にならなった方の顧問の先生に辞める意思を伝えた。その決断に至るまでの葛藤も話した。

 

それが、その先生には伝わらなかった。衝撃的でショックの大きい出来事だったからなのか何と言われたかは記憶にない。しかし、信頼していた顧問の先生の異動後、その顧問の先生しかバスケ部にいなかったため、休部の相談などもこれまでにしてきていた。

それなのに、 辞める話をしたときに、先生に一切何も伝わっていなかったことを実感し、絶望した。

高2の6月初めのことだった。

 

その日の夜、家族に思わずあふれてしまう涙と共にそのことを話しながら、突然それまで経験したことのないほどのひどい頭痛に襲われた。

どんなに疲れていてもしんどくても必ずやっていた予習や課題もやろうとしたができず、頭痛で寝たくても眠れず、ほぼ気を失うように眠りについたのを覚えている。

そして朝も頭痛で目が覚めた。窓の外で明るく照らす朝日を浴びるのがしんどくて、カーテンも開けられず、食べるのが大好きなのに食欲もわかず、スマホの光もしんどい。人の声や足跡、テレビの音、音楽、家族が階段の上り下りする音などすべてが頭にガンガンと、トンカチで殴られているような痛みが走った。

その日から、学校には行けず、ベッドで頭まで布団にくるまりカーテンも開けずに真っ暗な部屋で痛みに耐える日々が始まった。調子がいいときは下のリビングに降りてご飯を食べたり、座椅子に座り、家族にはそれ聞こえんわ(笑)と言われるほどの音量でテレビを見たりしていた。

一週間ほど経ったころ、「今日は午後からなら学校に行けそう」という日があった。行ってみると、クラスの人や先生方が声をかけてくれたり、楽しくお話したりした。しかし、頭痛はずっと残っていたため、午後をなんとか乗り越えた。帰りの時間、部活のため体育館のある方へ向かう先輩や仲間たちが目に入って動悸がしたが、無事に家に帰った。どっと疲れが出て、また頭痛が悪化し、一週間ほどまた学校に行けなくなった。そのように学校に行っては行けなくなりを繰り返していた。

電車に乗るのが怖くなり、人の目が異様に気になるようになり、学校の人みんな私を嫌っているように感じるようになった。それもあり、学校に行く日がどんどん減っていった。

この先、私が学校に行けなくなるのではないかと心配した母が半ば強制的に学校に連れて行ってくれたことがあった。それでも、私は母の車から降りれず、結局帰った。行かなきゃという気持ちがあるのに体が拒絶する。涙が止まらなかった。何の涙なのかもわからない。

そんなとき、高1のときからお世話になっている担任の先生が、「これから夏休みまでの8月、その間しっかり休んでください。」と家族と私に言ってくださった。正直ほっとした。体調がましな日は少々無理してでも学校に行かねば、と義務的に思ってそうしていたが、それで体調の悪化を繰り返してしまっていたから。

 

その担任の先生は当時60代手前の元気で明るいおじいちゃんだった。とてもおおらかで、生徒が一番!という感じで生徒思いの先生だった。先生になるべくしてなった人という感じだ。本当に生徒ひとりひとりを見ていて、みんなが楽しく元気に生活できることを願い、将来のために、ときに厳しく発破をかけてくれる先生だった。

 

そんな先生は、頑張りたいけど頑張れないという私の思いも酌んでくれていた。

そして、私以上に私の状態を理解してくれていた。

6月の終わりから7月の始めまでが一番、心も体もしんどい時期だった。ずっと暗い部屋のベッドにくるまり、お風呂もまともに入れず、入っても髪の毛を洗うのが激痛で、明るさやどんな音もしんどくて、ひたすら痛みに耐えていた。

なぜこんなに体調が悪い日が続いているのかわからなかった。部活の件が原因で体調を崩したと思っていたから、その問題が解決したんだから体調良くなるでしょ。そう思っていたいのに、いろんな病院に行って薬をもらっても、全く良くなる兆しが見えなくて、絶望し、自暴自棄になっていた。「死んだほうがいい」「死にたい」「生きるのが辛い」そう考えるようになっていた。

それでも辛い日々を耐えることができたのは、家族が見捨てずに面倒を見てくれたり、担任の先生が私を理解しサポートしてくれたり、学校の友達がメッセージをくれたりなど、周りの人のおかげだ。いくら感謝しても足りない。

 

どの薬も効かず、病院では最終的にメンタルクリニックをすすめられ、7月中旬くらいから通いだした。メンタルクリニックって何するんだろうと思いながら母に連れて行ってもらったが、お話して、漢方を処方されただけ。特に変わったことはしなかった。やっと、その漢方が私には合った。

 

 

担任の先生がよく、「頑張らんくていいんです。60%から70%の力でええから。」

と言ってくださっていた。当時は、頭では理解できても、頭に染みついた「全力を出し切る」という考え方がなかなか払拭できず、取り入れるのにとても時間がかかった。

また、「心を、おおらかに、寛容に」もよく言ってくださっていた。これは、当時の私には真意がよくわからなかった。私の体調が悪いことと、どう関係するのか、わからなかった。

夏休み前くらいの個人懇談で学校に久しぶりに行った日や、荷物を取りに行った日などに担任の先生と話す機会があって、その度にこれらの言葉をかけてくださっていた。

これらを取り入れるのが難しかったり、意味がわからなかったりしても、不思議とこの言葉を聞くと、肩の力が抜けリラックスできた。

 

メンタルクリニックで処方された漢方が体に合い、また、先生の言葉のおかげで、「今は休む時期だ。勉強はまた頑張ろうと思えたらやろう」と割り切ることができるようになり、家で休息をしっかり取れたため、8月の終わりの2学期の始業式の日は登校できた。担任の先生は、始業式は大したことせんから教室におるか、と言ってくださり、ありがたかった。お言葉に甘えて、教室で机やロッカーに先生やクラスメイトが置いてくれていた今までのプリント類や教材の整理をしたり、本を読んだりした。私だけでなく、クラスメイトも久しぶりの学校だったから、始業式後にクラスメイトが体育館から戻ってきたときも思ったほど緊張しなかったし、クラスメイトがいつも通り話しかけてくれたり挨拶してくれたりしたから、すぐに緊張がほどけた。周りの人のやさしさに涙がこぼれそうだった。

その日からは、単位を落とさないように先生や家族と話し合いながら、調子の悪い日は休み、学校に行ける日は父に送ってもらったり自力で行ったり、生活リズムを作っていった。

 

2学期のテストでは、点数とれなさそうで怖いという話を先生にしたところ、

「大丈夫じゃあ。満点を目指さんでええんよ。定期テストやこ、あんなもんは大したことない気にせんでええ。まずあなたは学校に来れだしたのがすごいことなんだから。一つずつ、順番に、おおらかな気持ちをもって」

「健康第一!どうにかなるから!」

 

先生のおまじないのおかげで、90点台が普通でむしろ90超えないと満足できなかったテストで70点台を取っても、以前なら「悔しい前より点数落ちてる」目の前の結果だけを見てひどく落ち込んでいただろうけど、「勉強せずにこの点数がとれたのはすごいよね」と納得できるようになったり、一度も落ちたことのなかった検定などで、一点足りなくて落ちたときも、「あと一点なら今日勉強するだけで次は受かるじゃん」と前向きに、前より客観的にとらえられることが多くなった。

 

先生は「あなたのいいとことは前向きなところ」これもよく言ってくださっていた。

そのポテンシャルを引き出してくれたのは、思い出させてくれたのは先生。

 

 

「頑張らないことは悪いこと」というそれまでの固定観念が解かれていった。

何かを頑張るためには、パワーを補給するために、肩の力を抜く時間、頑張らない時間が必要。

それを教えてくれたのが先生。

先生は、私が高3に上がる時期に異動になってしまったけど、大学入学前の春休みにお会いする機会をいただき会いに行ったり、今でもお手紙を送らせてもらったりしている。

 

 

無事、高校3年生に進級でき、学校に行ける日が増えていった。あんなに心の支えになってくださった先生がいない学校でやっていけるか不安だったが、先生が異動の前に、「あなたはもう大丈夫だから」と言ってくださっていたおかげで、安心して学校に通えた。それからは興味を持つことが増え、大学でしたいことも見つけ、大学受験をし、第一志望の大学に進学することが決まった。その間、先生が「なんかあったら(異動先の)学校に電話くれたらいいから」と言ってくださったので、お言葉に甘えて2回ほど電話で相談に乗ってもらった。親身になって話を聞いてアドバイスをくださり、受験対策のプリントのコピーや教材一封までも送ってきてくださった。高校を卒業し大学に合格できたことを報告に行くと、非常に喜んでくれ、安心してくださったようだった。

 

 

「心を、おおらかに、寛容に」

この言葉の真意が今ならわかる。

許容範囲を広げるということだろう。「まあいいか」と思う回数を増やすこと。

今までの私は、自分に対して厳しすぎた。「○○しないといけない」に無意識にとらわれていた。怠けることは許されない。そう考えていた。

それが自分を苦しめていた。

 

そしてそれは下手すれば、周りの人も苦しめていたと思う。

私は人の意見を否定することがあまりない。「それもいい!」、と思えることが多い。自分と全く逆の意見でも、話を聞いて納得してしまう。しかし、ときに微妙に心に違和感がある意見にも、完全に反対意見なわけではないからと肯定的に話を聞くことがあった。それが処世術でもあったから。

この状況が続けば、心の器が受け入れきれずあふれ出して、周りを傷つけてしまったり、受け入れられない自分自身を苦しめるようになる可能性だってある。

だからこそ、「心を、おおらかに、寛容に」は自分のためにも、他人のためにも必要なことだと、今では理解できる。

 

自分とは違う他人の意見を聞いたとき、右から左に流せる人と、心で受け入れて消化する人がいると思う。私は後者だ。きっと先生はそのことを知っていた。だからこそ、

「心を、おおらかに、寛容に」

こう伝え続けてくれていたのだろう。

 

明確な理由はわからないけれど、処世術として違和感のある意見を無理に肯定的に受け入れていた私は、今では、否定はせず、「そういう考えもあるよね」にプラスで「私はこうも思う」、と他人と自分の間に必要な境界ができ、無理なくおおらかに受け入れられるようになってきたと感じている。だから、会話が前ほど苦しくなくなった。

 

 

この、高校での出来事が私のマインドを大きく、健康に変えてくれた。

今でも「頑張ればなんでもできる」と思っているが、それをするのは心も体も元気で、楽しく始められると思ったとき。

 

「頑張らないといけないこと」は案外少ない。「頑張りたいこと」と「頑張らないといけないこと」が混同してしまう場合もある。そのときは、心のままに「したいこと」をする。自分を苦しめないように、しないのではなく、楽しい気持ちでできると感じるものを選ぶようにしている。

それでもしんどく感じ始めたときは、「頑張りたいこと」が習慣化しており、それが今は「頑張らないといけないこと」という風に思い込んでいるのでは?と自問すると、「あ、これ別に頑張らないといけないことではないな。だから今日はいっか」と気づけたりする。

最近の出来事で話すと、私は日々痩せたいと思っており(笑)、お風呂上がりの筋膜ローラーに力を込めていた。しかし、最近お風呂が面倒だなと感じており、「お風呂の何が面倒なんだろう」と考えてみると、「お風呂じゃなくてお風呂上がりの筋膜ローラーじゃない?!痩せたいから物理的に力込めてやっちゃって、疲れるからじゃない?!」と気づいた。筋膜ローラーに力はいらない(笑)自分の体重を乗せて転がすのが筋膜ローラーだよね。って。

その日からは、気軽にゴロゴロ筋膜ローラーを使っており、続いている。お風呂に入るのが面倒に感じなくなった。

私はアスリートじゃないんだから毎日筋膜ローラーを疲れるまでやる必要はない。

 

日々の中で、疲れや面倒さ、苦しさを感じるポイントにひとつずつ向き合うことで、自分自身をよりフレキシブルにすることができる。

そのポイントを咀嚼することで、無駄が省けたり、状況が好転したり、なにより心を軽くすることができる。

 

 

「頑張りたいこと」はいくつあってもいい。人生を豊かにするエッセンスになるから。

それが、いつの間にか「頑張らないといけないこと」に無意識のうちに変化していることはよくある。

その状況に陥った時、どうやって気付けるだろう?

 

それは、自分の体や心の声を聴くこと。疲れを感じたり、心が重くなっているとき、そんなときは、「頑張らないといけないこと」に感じるものが無意識に増えてしまっているから。自分の固定観念を疑ってみる。

そうやって体や心がサインを必ず出してくれている。多少難しくてもそれに向き合うことが、自分が健康に、心地よく、楽しく、人生を送れる材料になる。

 

だから、今では「頑張らないといけないこと」が見当たらない。「やりたいこと」がたくさんで、それに向けて具体的に何をするか。これがまた、「頑張らないといけないこと」に、無意識に変換されないよう、観察しながら、心地よい距離感で付き合っていこうと思う。

 

やりたいことは全部やる。義務感に苛まれていることがあれば、改善したり、無駄を見つけたり、なくすことだってできる。

脳内お花畑の小娘が語る夢物語だと思われたかもしれないが、19歳の今の時点で実感したことだ。

 

自分の物語をつむいでいくのは自分自身。

 

私はその物語を豊かで穏やかで朗らかなものにしたい。

 

だからこそ、私はいろいろな考えや出来事、気持ちを受け入れられるよう、

「心を、おおらかに、寛容に」生きていく。

 

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。この文章があなたの人生をよりよくする糧となれば幸いです。

 

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