Thymos’s blog

さらけ出します。

香りと記憶

香りの記憶は強力だ。経験したことのある香りを感じたとき、以前その香りを感じたときの心情や風景、出来事が一気によみがえってくる。

その記憶はときに苦く、ときに驚異的で、ときに幸せな気持ちにする。

人の香りはさまざま。電車で隣になった人が知り合いと同じ香りがすると、親近感が湧く。

学生のときに誰かが使っていたファブリーズやシーブリーズの香りは、一気に懐かしい記憶がよみがえるきっかけになる。元カレの香りがすれば、そんな思い出もあったな、となる。祖父母の家のお線香の香り。友達の家の香り。

 

私は鼻がよく利くほうだ。学生のころ、トイレの個室に入ると、さっきまで誰がいたか残り香でわかった。少し気持ち悪い話かもしれない笑

 

天気の香りもある。

雨が降る前の重たい香り、雨の日の電車の中のこもった香り、雨降り後の陰りと爽快に吹きまわる風の香り、春のお花の香り、春から夏の節目に訪れるくせのない香り、秋の金木犀の香り。

 

お気に入りの香りがある。

いつもよりはやく夕方5時ごろにお風呂から上がったとき、母が料理をしてくれている香りだ。お風呂上がりのクリアな鼻に入り込むお料理の香りは、なんて幸福な気持ちにしてくれるのだろう。レアな日だ。

この香りがするといつも思い出すのは小学校から帰ると母がいつもお料理をしながら、おかえり、と出迎えてくれていたこと。

母がキッチンでお料理をしてくれながら、私の話も聞いてくれながら、私は漢字ドリルなどの宿題をやっていた。この時間がひそかに大好きだった。

中学生になると、放課後の部活や友達と遊んだりで帰るのが遅く、暗くなってからお家に帰っていた。だから、机の上には母がラップしてくれたお料理を食べることが多かった。部活引退後から高校受験モードまでのわずかな期間、小学生の頃のように、母の料理中に帰宅する日があった。その日は懐かしい記憶をたどるように、キッチンのそばの机に課題を広げてやっていた。

高校生になると、遠い高校に通っており部活もしていたので、帰る時間が格段に遅くなった。帰りが夜8時頃で、家族はご飯を食べ終わっていた時間だったから、寂しい気持ちもありながら、高校生活に勤しんでいた。この頃に母は夕方のパートさんのお仕事を始めたため、午前中からお昼の時間帯に夕飯を作って仕事に行ってくれていた。

 

大学生になり、私や姉が夕飯を作ることも増え、母は夕方のパートを続けているので、母が料理を夕方に作る日はほとんどなくなった。

大学生活でも予定が思っていたよりたくさん入ったため、帰る時間が遅いことも多々ある。

 

春休みの今、母のパートが休みの日は母が料理を作ってくれている横で勉強をするという贅沢が叶っている。

小学生の時と一つ違うことは、私が休みの日で母も休みの日は、私が料理をすると言わないと、母が少し不機嫌になりながら料理を始めるということ笑

 

この懐かしい香り、小さな幸せの記憶をここに書き残そう。

 

 

好きな香りや香りの記憶はありますか?ぜひコメント欄にて教えてください(o^―^o)

 

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「頑張らないといけないこと」本当にそう?

「頑張らないといけないこと」に日々追われて、体も心もボロボロになってから、やっと休息をとり、もう一度、の繰り返し。そんな人生。

 

だけど今は違う。

 

全力疾走を続け、過呼吸になるほどしんどくなったら休憩するスタイルを、ある出来事がきっかけで変え始めたから。

 

そもそも、なぜ、そのようなスタイルが出来上がったのか。

 

幼稚園児時代からさかのぼってみる。

 

私は小さいころから負けず嫌いだった。「やりたい!」「できるようになりたい!」という気持ちにまっすぐで、性格は内気な女の子。幼稚園の時は、一輪車に乗っている上級生に憧れ、自分も乗れるようになりたくて、園で毎日一輪車の練習をしていた。その努力が実り、半年くらいで乗りこなせるようになった。母がすごいね、と驚きと共に褒めてくれた記憶がうっすらとある。小学校では、けん玉が流行り、特に「もしかめ」のブームがあった。「もっしもしかーめよーかーめさんよー♪」という歌に合わせてけん玉で遊ぶのが「もしかめ」だ。けん玉は当時初挑戦だったが、これもできるようになりたくて、授業の間の休み時間、業間、昼休みもずっと、もしかめの練習をしていた。最終的にクラスの誰よりもけん玉が得意になったと思う。当時の担任の先生が、通知表の配布時にひとりひとりに声をかけてくれるのだが、「教科に『けん玉』があったら5段階評価中の5だよ」と言ってくれたほどだ。

さらに、父がきっかけで始めたギターにもドはまりし、コード弾きであればなんでも弾けるくらいには上達した。そして、小学校最後の音楽会の学年合奏で、ギターをやらせてもらった。緊張のあまり出だしを一拍はやく始めてしまったのだが、それ以外は問題なく合奏を終えた。先生方が誇りに思ってくださるほど、全体的にクオリティの高い合奏であったからか、観覧席からの拍手がなかなか鳴りやまなかったのを覚えている。

その後、担任の先生に「出だし失敗してしまいました…」と話したら、「周りに合わせればいいやって途中から演奏を始めるのではなくて、自分で判断できたってことがすごいことだよ」と言ってくださったおかげで、黒歴史になりそうなところを、成長したんだという自信に変わった。

この先生は良いことは良い、良くないことにはこうだから良くない、という先生だった。雨の日に廊下で数人で鬼ごっこをしていたことをほかの先生からその先生にタレコミが行き、こっぴどく叱られたのを覚えている。怖かったぁ…今思い出すだけでも動悸がする。

しかし、この先生のお言葉のおかげで、ギターに挑戦してみてよかった!頑張った甲斐があった、と思えた。

 

中学生で「頑張ればなんでもできる」と気づいた。今思えば、私は器用貧乏なんだろう。勉強、運動、作文、習字、楽器、など、苦手なことはあっても、たいていのことは難なくできた。例えば、定期テスト前は前日だけ勉強し、約90人の学年の内、5位などその辺りで勉強が嫌いじゃなかった。身体測定もずば抜けていい記録なわけでもないが、そこそこいい点。「中学生」の時点では、今より「頑張り」の量は少なくてもできるようになることが多かった。

しかし、その中でも特に熱を注いだものは部活動、合唱祭の伴奏、高校受験だ。

部活動は初挑戦のバスケ部に入り、スタメンになりたくて歯を食いしばりながら練習に励み、最終的にスタメンに選ばれるようになった。なかなか思うようにいかずしんどくて部活に行きたくないと思う時期もあったが、顧問の先生や部活の仲間のおかげで頑張りきることができた。

中学最後の合唱祭では、習っていないのに課題曲のピアノ伴奏に立候補した。(課題曲は学年ごとに決まっており、毎年同じ)中学1年生のとき、3年生の先輩が課題曲の伴奏をしているのを見て「めちゃめちゃにかっこいい!私も3年生になったらこれ弾きたい!」と憧れたからだ。

その曲は「COSMOS」で、秋にある本番に向け、ちょうど部活を引退した夏休みから毎日ピアノの練習をした。学校の音楽の先生に指導をもらいに学校に行った日もあった。人生で一番頑張った瞬間といえるほど、頑張った。

本番では、「緊張」を「今までの練習してきたという自信」が相殺してくれ、一音も間違えることなく、心を込めた演奏ができた。私のクラスは最優秀賞に選ばれ、感無量だった。

合唱祭後すぐ、学年全体が受験モードに入った。最終下校時刻まで毎日、放課後学校に残って勉強した。友達と一緒に勉強したり、先生も協力して放課後残ってくれたり、まさに「青春」の2文字がぴったりな日々だった。私はあまり覚えがないが、家族が言うには「あんたは家に帰っても毎日勉強しとった」らしい。

その努力が報われたのか、第一志望も、滑り止めで受けていた難関私立高校の学科などもすべて合格をいただいた。嬉しかった。これほどの達成感を感じたことはないというほどだった。

 

小学校の一輪車から中学の高校受験、これらの経験が「頑張ればなんでもできる」「なんでもやってやろう」というマインドを生んでくれた。

 

異変が現れたのは高校。

 

第一志望の高校に入学し、中学に続きバスケ部に入った。しかし、この高校は家から遠く、片道1時間半~2時間かかった。田舎のため、電車の待ち時間が30分から約1時間など、長かった。朝も毎朝6時起きで、あわただしく準備し駅に向かう。学校に到着するのは授業が始まる5分前。8時半に1時間目が始まり、一日授業を受ける。授業の合間の休み時間も、夜の睡眠を少しでも長く確保するために予習や課題に取り組んでいた。放課後は部活に励み、家に着くのは8時。そこからご飯、お風呂、授業の予習、課題等をすればあっという間で、日をまたいでベッドに入っていた。どれだけ早くそれらをこなしても寝られるのは11時だった。そして明日も6時起き。新しい環境、初めての電車通学、毎日部活、授業の予習や課題、それに追われながらのこの睡眠時間は私には到底足りない。週1で部活がオフの日はあっても、その日は事前にできる授業の予習や課題をやれば、自由な時間はほとんどなかった。土日祝も毎日部活。代り映えしない同じ日々、部活も経験が長い人ばかりで、どうあがいても、いくら練習しても、埋めることのできない技術の差に悩まされ、辛かった。先輩は、私の同学年のバスケが上手な人とよく話しており仲が良かった。私も上手になって試合に出たい。そう思って先輩に教えを乞うたり、挨拶だけでもしっかりするよう心掛けていた。また信頼できる顧問の先生にも出会ったおかげで、頑張れていた。それでも試合に出てる人たちを超える技術までに上達するのは難しかった。試合に出るチャンスをいただいても、「よくやった!」と褒められるときもあったが、うまくいかないことがほとんどで先輩に怒られてばかりだった。また、信頼していた顧問の先生の異動が出たのもそのころだった。

しんどかった。辛かった。どれだけ頑張っても報われない。バスケは大好きなのに。

「報われるまで頑張ってやる」

今までもそうやって夢をかなえてきたんだから。

 

しかし、そんな気持ちとは裏腹に、もう辞めたい、しんどいという気持ちも出てきていた。

十分な睡眠や、好きな漫画や本を読んだり、家族とご飯を食べながら楽しくおしゃべりする時間、何もせずにボーっとする時間、そんな自分の時間が全くない。

自分で選んだ高校なのに、自分がなりたかった高校生のはずなのに、なんで辛くなっているんだろう。何のために生きているんだろう。そんなことを考えるようになっていた。この高校を選んだ一番の理由は「バスケ部の人たちが私のように努力家な子たちばかり」と、中学のバスケ部の顧問の先生から聞いたからだ。それで、遠い学校にも関わらず、家族を説得してこの高校を受験した。

それもあって、簡単に辞めたいなんて言えない。自分で選んだことなんだから。

 

そうやって半年ちょっとが経過した。それでも苦しい気持ちは募るばかりで部活だけでなく学校も嫌だと思うようになっていた。

これじゃ本当にだめになると思い、部活を辞めようかと考えていることを家族に打ち明けた。意外にも、真摯に受け入れてくれ、一緒に考えてくれた。家族は私のバスケが好きな気持ち、でもいまはしんどくて疲れてしまっている状態から、休部する案を出してくれた。異動にならなかった方の顧問の先生や先輩である部長や、同級生の部活の仲間とも話し、放課後の練習は出ず、練習試合や試合にはマネージャーとして参加することになった。

 

これで良くなるはず、そう思った。

けれど、違った。

 

私はバスケが大好きだ。だからこそ、練習試合や試合で活躍しどんどん上手になっていく仲間を見ていると、私と同じように「高校生」をしている彼女たちは頑張れているのに、私はなんで頑張れていないのだろう、と情けなさと悔しさに耐え切れなくなった。それくらいの頃から頭痛や不眠に悩まされ始めた。頭痛は初めての経験だった。疲れているはずなのに寝付けない日がほとんどだった。学校に行けない日も出てきていた。

「バスケが好きなのに、辞めるしかないのかな。どうしても仲間たちと自分を同じ土台で見てしまうから、完全に離れないと、割り切れないのかな」そんな風に思うようになっていた。

 

 

「休部」し始めて一か月が経ったころ、週3ほど学校を休むようになり、家族に相談し、苦渋の決断だったが、辞めることにした。

 

土日と月曜日と、火曜日もだったか、記憶が定かではないが久しぶりの学校に行き、異動にならなった方の顧問の先生に辞める意思を伝えた。その決断に至るまでの葛藤も話した。

 

それが、その先生には伝わらなかった。衝撃的でショックの大きい出来事だったからなのか何と言われたかは記憶にない。しかし、信頼していた顧問の先生の異動後、その顧問の先生しかバスケ部にいなかったため、休部の相談などもこれまでにしてきていた。

それなのに、 辞める話をしたときに、先生に一切何も伝わっていなかったことを実感し、絶望した。

高2の6月初めのことだった。

 

その日の夜、家族に思わずあふれてしまう涙と共にそのことを話しながら、突然それまで経験したことのないほどのひどい頭痛に襲われた。

どんなに疲れていてもしんどくても必ずやっていた予習や課題もやろうとしたができず、頭痛で寝たくても眠れず、ほぼ気を失うように眠りについたのを覚えている。

そして朝も頭痛で目が覚めた。窓の外で明るく照らす朝日を浴びるのがしんどくて、カーテンも開けられず、食べるのが大好きなのに食欲もわかず、スマホの光もしんどい。人の声や足跡、テレビの音、音楽、家族が階段の上り下りする音などすべてが頭にガンガンと、トンカチで殴られているような痛みが走った。

その日から、学校には行けず、ベッドで頭まで布団にくるまりカーテンも開けずに真っ暗な部屋で痛みに耐える日々が始まった。調子がいいときは下のリビングに降りてご飯を食べたり、座椅子に座り、家族にはそれ聞こえんわ(笑)と言われるほどの音量でテレビを見たりしていた。

一週間ほど経ったころ、「今日は午後からなら学校に行けそう」という日があった。行ってみると、クラスの人や先生方が声をかけてくれたり、楽しくお話したりした。しかし、頭痛はずっと残っていたため、午後をなんとか乗り越えた。帰りの時間、部活のため体育館のある方へ向かう先輩や仲間たちが目に入って動悸がしたが、無事に家に帰った。どっと疲れが出て、また頭痛が悪化し、一週間ほどまた学校に行けなくなった。そのように学校に行っては行けなくなりを繰り返していた。

電車に乗るのが怖くなり、人の目が異様に気になるようになり、学校の人みんな私を嫌っているように感じるようになった。それもあり、学校に行く日がどんどん減っていった。

この先、私が学校に行けなくなるのではないかと心配した母が半ば強制的に学校に連れて行ってくれたことがあった。それでも、私は母の車から降りれず、結局帰った。行かなきゃという気持ちがあるのに体が拒絶する。涙が止まらなかった。何の涙なのかもわからない。

そんなとき、高1のときからお世話になっている担任の先生が、「これから夏休みまでの8月、その間しっかり休んでください。」と家族と私に言ってくださった。正直ほっとした。体調がましな日は少々無理してでも学校に行かねば、と義務的に思ってそうしていたが、それで体調の悪化を繰り返してしまっていたから。

 

その担任の先生は当時60代手前の元気で明るいおじいちゃんだった。とてもおおらかで、生徒が一番!という感じで生徒思いの先生だった。先生になるべくしてなった人という感じだ。本当に生徒ひとりひとりを見ていて、みんなが楽しく元気に生活できることを願い、将来のために、ときに厳しく発破をかけてくれる先生だった。

 

そんな先生は、頑張りたいけど頑張れないという私の思いも酌んでくれていた。

そして、私以上に私の状態を理解してくれていた。

6月の終わりから7月の始めまでが一番、心も体もしんどい時期だった。ずっと暗い部屋のベッドにくるまり、お風呂もまともに入れず、入っても髪の毛を洗うのが激痛で、明るさやどんな音もしんどくて、ひたすら痛みに耐えていた。

なぜこんなに体調が悪い日が続いているのかわからなかった。部活の件が原因で体調を崩したと思っていたから、その問題が解決したんだから体調良くなるでしょ。そう思っていたいのに、いろんな病院に行って薬をもらっても、全く良くなる兆しが見えなくて、絶望し、自暴自棄になっていた。「死んだほうがいい」「死にたい」「生きるのが辛い」そう考えるようになっていた。

それでも辛い日々を耐えることができたのは、家族が見捨てずに面倒を見てくれたり、担任の先生が私を理解しサポートしてくれたり、学校の友達がメッセージをくれたりなど、周りの人のおかげだ。いくら感謝しても足りない。

 

どの薬も効かず、病院では最終的にメンタルクリニックをすすめられ、7月中旬くらいから通いだした。メンタルクリニックって何するんだろうと思いながら母に連れて行ってもらったが、お話して、漢方を処方されただけ。特に変わったことはしなかった。やっと、その漢方が私には合った。

 

 

担任の先生がよく、「頑張らんくていいんです。60%から70%の力でええから。」

と言ってくださっていた。当時は、頭では理解できても、頭に染みついた「全力を出し切る」という考え方がなかなか払拭できず、取り入れるのにとても時間がかかった。

また、「心を、おおらかに、寛容に」もよく言ってくださっていた。これは、当時の私には真意がよくわからなかった。私の体調が悪いことと、どう関係するのか、わからなかった。

夏休み前くらいの個人懇談で学校に久しぶりに行った日や、荷物を取りに行った日などに担任の先生と話す機会があって、その度にこれらの言葉をかけてくださっていた。

これらを取り入れるのが難しかったり、意味がわからなかったりしても、不思議とこの言葉を聞くと、肩の力が抜けリラックスできた。

 

メンタルクリニックで処方された漢方が体に合い、また、先生の言葉のおかげで、「今は休む時期だ。勉強はまた頑張ろうと思えたらやろう」と割り切ることができるようになり、家で休息をしっかり取れたため、8月の終わりの2学期の始業式の日は登校できた。担任の先生は、始業式は大したことせんから教室におるか、と言ってくださり、ありがたかった。お言葉に甘えて、教室で机やロッカーに先生やクラスメイトが置いてくれていた今までのプリント類や教材の整理をしたり、本を読んだりした。私だけでなく、クラスメイトも久しぶりの学校だったから、始業式後にクラスメイトが体育館から戻ってきたときも思ったほど緊張しなかったし、クラスメイトがいつも通り話しかけてくれたり挨拶してくれたりしたから、すぐに緊張がほどけた。周りの人のやさしさに涙がこぼれそうだった。

その日からは、単位を落とさないように先生や家族と話し合いながら、調子の悪い日は休み、学校に行ける日は父に送ってもらったり自力で行ったり、生活リズムを作っていった。

 

2学期のテストでは、点数とれなさそうで怖いという話を先生にしたところ、

「大丈夫じゃあ。満点を目指さんでええんよ。定期テストやこ、あんなもんは大したことない気にせんでええ。まずあなたは学校に来れだしたのがすごいことなんだから。一つずつ、順番に、おおらかな気持ちをもって」

「健康第一!どうにかなるから!」

 

先生のおまじないのおかげで、90点台が普通でむしろ90超えないと満足できなかったテストで70点台を取っても、以前なら「悔しい前より点数落ちてる」目の前の結果だけを見てひどく落ち込んでいただろうけど、「勉強せずにこの点数がとれたのはすごいよね」と納得できるようになったり、一度も落ちたことのなかった検定などで、一点足りなくて落ちたときも、「あと一点なら今日勉強するだけで次は受かるじゃん」と前向きに、前より客観的にとらえられることが多くなった。

 

先生は「あなたのいいとことは前向きなところ」これもよく言ってくださっていた。

そのポテンシャルを引き出してくれたのは、思い出させてくれたのは先生。

 

 

「頑張らないことは悪いこと」というそれまでの固定観念が解かれていった。

何かを頑張るためには、パワーを補給するために、肩の力を抜く時間、頑張らない時間が必要。

それを教えてくれたのが先生。

先生は、私が高3に上がる時期に異動になってしまったけど、大学入学前の春休みにお会いする機会をいただき会いに行ったり、今でもお手紙を送らせてもらったりしている。

 

 

無事、高校3年生に進級でき、学校に行ける日が増えていった。あんなに心の支えになってくださった先生がいない学校でやっていけるか不安だったが、先生が異動の前に、「あなたはもう大丈夫だから」と言ってくださっていたおかげで、安心して学校に通えた。それからは興味を持つことが増え、大学でしたいことも見つけ、大学受験をし、第一志望の大学に進学することが決まった。その間、先生が「なんかあったら(異動先の)学校に電話くれたらいいから」と言ってくださったので、お言葉に甘えて2回ほど電話で相談に乗ってもらった。親身になって話を聞いてアドバイスをくださり、受験対策のプリントのコピーや教材一封までも送ってきてくださった。高校を卒業し大学に合格できたことを報告に行くと、非常に喜んでくれ、安心してくださったようだった。

 

 

「心を、おおらかに、寛容に」

この言葉の真意が今ならわかる。

許容範囲を広げるということだろう。「まあいいか」と思う回数を増やすこと。

今までの私は、自分に対して厳しすぎた。「○○しないといけない」に無意識にとらわれていた。怠けることは許されない。そう考えていた。

それが自分を苦しめていた。

 

そしてそれは下手すれば、周りの人も苦しめていたと思う。

私は人の意見を否定することがあまりない。「それもいい!」、と思えることが多い。自分と全く逆の意見でも、話を聞いて納得してしまう。しかし、ときに微妙に心に違和感がある意見にも、完全に反対意見なわけではないからと肯定的に話を聞くことがあった。それが処世術でもあったから。

この状況が続けば、心の器が受け入れきれずあふれ出して、周りを傷つけてしまったり、受け入れられない自分自身を苦しめるようになる可能性だってある。

だからこそ、「心を、おおらかに、寛容に」は自分のためにも、他人のためにも必要なことだと、今では理解できる。

 

自分とは違う他人の意見を聞いたとき、右から左に流せる人と、心で受け入れて消化する人がいると思う。私は後者だ。きっと先生はそのことを知っていた。だからこそ、

「心を、おおらかに、寛容に」

こう伝え続けてくれていたのだろう。

 

明確な理由はわからないけれど、処世術として違和感のある意見を無理に肯定的に受け入れていた私は、今では、否定はせず、「そういう考えもあるよね」にプラスで「私はこうも思う」、と他人と自分の間に必要な境界ができ、無理なくおおらかに受け入れられるようになってきたと感じている。だから、会話が前ほど苦しくなくなった。

 

 

この、高校での出来事が私のマインドを大きく、健康に変えてくれた。

今でも「頑張ればなんでもできる」と思っているが、それをするのは心も体も元気で、楽しく始められると思ったとき。

 

「頑張らないといけないこと」は案外少ない。「頑張りたいこと」と「頑張らないといけないこと」が混同してしまう場合もある。そのときは、心のままに「したいこと」をする。自分を苦しめないように、しないのではなく、楽しい気持ちでできると感じるものを選ぶようにしている。

それでもしんどく感じ始めたときは、「頑張りたいこと」が習慣化しており、それが今は「頑張らないといけないこと」という風に思い込んでいるのでは?と自問すると、「あ、これ別に頑張らないといけないことではないな。だから今日はいっか」と気づけたりする。

最近の出来事で話すと、私は日々痩せたいと思っており(笑)、お風呂上がりの筋膜ローラーに力を込めていた。しかし、最近お風呂が面倒だなと感じており、「お風呂の何が面倒なんだろう」と考えてみると、「お風呂じゃなくてお風呂上がりの筋膜ローラーじゃない?!痩せたいから物理的に力込めてやっちゃって、疲れるからじゃない?!」と気づいた。筋膜ローラーに力はいらない(笑)自分の体重を乗せて転がすのが筋膜ローラーだよね。って。

その日からは、気軽にゴロゴロ筋膜ローラーを使っており、続いている。お風呂に入るのが面倒に感じなくなった。

私はアスリートじゃないんだから毎日筋膜ローラーを疲れるまでやる必要はない。

 

日々の中で、疲れや面倒さ、苦しさを感じるポイントにひとつずつ向き合うことで、自分自身をよりフレキシブルにすることができる。

そのポイントを咀嚼することで、無駄が省けたり、状況が好転したり、なにより心を軽くすることができる。

 

 

「頑張りたいこと」はいくつあってもいい。人生を豊かにするエッセンスになるから。

それが、いつの間にか「頑張らないといけないこと」に無意識のうちに変化していることはよくある。

その状況に陥った時、どうやって気付けるだろう?

 

それは、自分の体や心の声を聴くこと。疲れを感じたり、心が重くなっているとき、そんなときは、「頑張らないといけないこと」に感じるものが無意識に増えてしまっているから。自分の固定観念を疑ってみる。

そうやって体や心がサインを必ず出してくれている。多少難しくてもそれに向き合うことが、自分が健康に、心地よく、楽しく、人生を送れる材料になる。

 

だから、今では「頑張らないといけないこと」が見当たらない。「やりたいこと」がたくさんで、それに向けて具体的に何をするか。これがまた、「頑張らないといけないこと」に、無意識に変換されないよう、観察しながら、心地よい距離感で付き合っていこうと思う。

 

やりたいことは全部やる。義務感に苛まれていることがあれば、改善したり、無駄を見つけたり、なくすことだってできる。

脳内お花畑の小娘が語る夢物語だと思われたかもしれないが、19歳の今の時点で実感したことだ。

 

自分の物語をつむいでいくのは自分自身。

 

私はその物語を豊かで穏やかで朗らかなものにしたい。

 

だからこそ、私はいろいろな考えや出来事、気持ちを受け入れられるよう、

「心を、おおらかに、寛容に」生きていく。

 

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。この文章があなたの人生をよりよくする糧となれば幸いです。

 

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自分軸が導く新しい人生

「浅く広くの人間関係が運気を向上させる。これからの人生の中でたくさんの新しい人と出会い交流していくのがよい。同じ人たちとずっと一緒にいることはよくない。」

私は占いが好きで、ある程度信頼している占いの本で私はそう定義されていた。

この文章を読んだとき、寂しい気持ちになった。それでも、そうなのかもしれない、と思い当たることがあった。

 

私は生活、プライベート、学校、バイトなどのそれぞれの組織の中で、ずっと同じ人と過ごすことがあまりなかった。行動はたいてい一人で、それぞれの場所で言葉を交わす人はいても、それだけだった。単に、集団が苦手というわけではない。常に誰かがいる状態だと、窮屈さを感じてしまう。

 

そんな私でも結構長く所属している組織がある。それが地元だ。地元は中学校生活までを共にした人たちである。大学生になった今でも、私を含め、地元に残っている人たちで集まってドライブやご飯に行くことがある。

しかし、近頃、彼らと過ごしているとき、私の中の何かかがすり減っていく感覚があった。彼らと一緒に過ごしているとき、「楽しい、おもしろい」という感情が現れるのは確かだ。それでもなぜか、最近は解散した後、虚しい気持ち、次は行きたくないという苦しい感情と、楽しかった瞬間の記憶に戸惑う。それからは、地元の集まりに呼ばれたとき、その時の自分が行きたくないという気持ちが少しでも現れたら断り、行こうかなと楽しみな気持ちが現れたら行くようになった。

そのような違和感を感じる前までは「問答無用の地元大好き人間」だったので「行く行く!」と悩むまでもなく喜んで行っていた。

 

この変化はどうして現れたのだろう。

 

ここ2、3年の私は「自分軸をぶらすことのない人間になること」を目標に日々と向き合ってきたし、今もそうだ。その成果がこの人間関係上に現れたのだ。

いつも集まり声をかけてくれる地元の人たちは、地元の人であれば誰でもよく、ただみんなで楽しくワイワイしたい人たちであるということはわかっていた。そのことに私が傷ついたり落ち込んだりしたことがないのは、「そういう地元」であるからで、悪意があってしている行動ではないと100%言い切れるからだ。集まった人たちみんなで話せるし、その中の誰かが他の誰かに悪意を持った言動をするわけでもない。だから、私は彼らが単に嫌いになっていないし、彼らひとりひとりの素敵なところもたくさん知っているから、人として好きなままだ。

 

それでもこの現状に違和感を感じ始めたのは、19歳の私が日常生活の中で少しずつ、自分を尊重し、自身に価値を感じられるようになったからだ。

 

自分を尊重し価値を感じられるようになるためにしたことは、「私は自身を尊重する」という気持ちを持ち続けること。そうすると自ずと、他人軸でものを考えていることに気づけた。そのときに、「他人のことは置いておいて、まず、私はどうしたい?何が頭に思い浮かんだ?」と、自問し、自身の心の声に耳を傾けるようにした。

自分の感情を大切にできるのは私だけだから。

 

「誰でもいい」の中に他人の手によって「私」がエントリーされ、それに喜んで飛びつくのは、自分の価値を下げている。自分を尊重できていない。「私と」話したい、「私と」遊びたい、といってくれる人と過ごしたい。

だから、私の安売りをしない。したくない。

そう無意識に感じ、自分軸を大切にできるようになってきた心が、違和感として気づかせてくれたのだろう。

 

もう一つ疑問があった。

同じ組織に居続けるのに拒否反応を起こす私が、地元ではそうでなかったのはなぜか。

 

それは、今まで他人軸で思考を重ねながら作り上げた人間関係だからなのだと思う。

地元は、まさに中学生という大成長中のさなかに関わる人たちとの関係で、人生の中でも特にその時期に人との付き合い方を習得していく。だから、この時期は試行錯誤し、ある意味フレキシブルなため、「自分はこの人たちと上手くやっていくためにどう考え、動くべきか」と、他人軸で考えるのが私の普通になっていた。

そんなわけで長くこの組織にいられた。

 

他人軸で作った自分によってできた人間関係は、自分軸に移行している自分に合わなくなっていくのは必然的だ。

 

人は誰しもそれぞれのペースでレベルアップしている。自身がレベルアップしていく過程で、周りもレベルアップしている。だから、そのレベルにふさわしい人と出会い、関係を構築することができるのだと思う。同じ年齢でも、はるかにたくましい心を持っている人もいれば、逆も然り。

そのような、周りや自身の変化の中で生きている人間は、今までの関係が合わなくなるなどの変化は悪いことではない。新しい人間関係が構築されるように、以前と違って居心地の悪くなった場所から離れることがあるのも自然だ。

むしろ、そのような変化によって、自身の成長に気づいたり、未熟な部分が浮き出たりする。それは次のレベルアップにつながる。

 

こう考える私だから、「浅く広くの人間関係が運気を向上させる。これからの人生の中でたくさんの新しい人と出会い交流していくのがよい。同じ人たちとずっと一緒にいることはよくない。」

と言われるのだろうな。

それでも今は悪い気はしない。

私のレベルアップに必要なことだから。

女子大生一人旅の日常

19歳女子大生の一人旅行 道後温泉愛媛県松山市

 

先日一泊二日で道後御湯(どうごみゆ)に行ってきた。今の時期にピッタリのレジャーだ。

 

ゆったりのんびりとした雰囲気が大好きで、日々癒しを求めて生きており、一人気の向くまま旅行をしようと思いついた。寒さが厳しい季節で、インスタで温泉の投稿がしきりに目に留まるようになり、よっしゃ温泉に行くぜ!と。

 

温泉旅行が決まったものの、大学生の貯金額は多くない。日々癒しを求めて生きている人間だから、バイトのシフトも多くない。そんなこんなで、料金が安いことが前提で温泉探しを始めた。あと大浴場が苦手なため、露天風呂付客室を探した。

 

料金やアクセスの良さ等の頭を悩ます問題がなければ、千と千尋の神隠しのモチーフになったと言われている群馬県四万温泉の積善館本館に行きたかった、、、、今のわたしには交通面でも、金銭面でも難しい。やめよう。

 

最終的に、JTB でお手頃価格で道後温泉の旅行パックを見つけた。宿泊代と列車料金も含まれており、便利なサイトだ。以前から少し気になっていたので、ラッキー!

 

行くなら観光もめいっぱい楽しみたい。そのためにはリサーチ。道後温泉までの道中やその近くに観光できるところを探した。

道後温泉の近くには歴史を感じることのできる場所がたくさんだった。リサーチの段階で目を付けていた伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)、圓満寺(えんまんじ)や、上人坂、湯築城跡(ゆづきじょうあと)など。

 

伊佐爾波神社までの道が坂だと思っていたけれど、これがなんと階段だった。傾斜が下に向いている石造りの階段がよくあるが、あれはなぜ?危険では?笑

高身長のわたしは一人で出かけるときくらいにしかお気に入りのハイヒールブーツを履けない(一応気にする)だから、この旅行でハイヒールブーツを履いて来ていた。それがこの階段を上るときには裏目に出たみたい。非常に恐怖を感じたよ…

階段の長さを記録するために片手にはスマホを握りしめ、冷や汗と共に、なんとか神殿まで上りきり、後ろを振り返ってみると、ゾッとした。こんなに高い階段を上ってきたのか、、よく死ななかったな、と笑

 

帰りはあの階段を降りたくないなぁと思いながら神殿の周りを一周ぐるりと散策していると、神殿の裏側に別の神社と下のほうへつながる緩やかで広い階段を見つけたので、しめしめ。

やっと、神殿に入り、お参りをし、神殿の中もゆっくり歩いた。数学に関わる神社のようだった。建物がGoogleの写真通り鮮やかで、美しい神社だった。

 

その後、裏側で見つけた緩やかな階段を下りていくと、宝厳寺(ほうごんじ)があった。このお寺の印象は「明るいグレー」だった。きれいに整備されており、広々としていた。朝ごはんを食べずに神社巡りをしていたためお腹が空き、宝厳寺は顔を出す程度にし、四国の名産、鯛釜飯を食べに行った。

 

道後ハイカラ通りにあるお店で鯛釜飯をいただいた。開店直後だったため、一番客だった。人生経験の浅い私には、鯛釜飯が有名である明白な理由がわからなかったが、おいしかった。それでも次は、違うものを食べる気がする。笑

 

道後御湯はサービスが行き届いていた。ちゃんとした旅館の宿泊経験がない私は、エントランスで旅館の方が出迎えてくださったことに驚いた。その方はお荷物お持ちしますね、と言ってくださったことにも驚き、リュックのほかに手に持っていた道後プリンの入った紙袋を渡そうとすると、そちらの大きいお荷物のほうをお持ちいたしますね、と言ってくださった。そのあともお部屋までエレベーターを先に乗せてくださったり、ドアを開けてくださったりと、どこかのお偉いさんにでもなったのかと思った。

 

お部屋での受付が終わり、さて、露天風呂だ!道後温泉はいわゆる美人の湯だ。お湯につかると、肌がすべすべのもちもちになり、温泉から足を出しても足が水をまとってキラキラしていた。風がお湯から出た体の部分を冷やし、気持ちいい。肩までお湯につかったのが久しぶりで、極上のリラックスタイムだった。

時間も忘れてのんびりしすぎたため、のぼせた。気づけば2時間近く入っていたみたい。

お風呂後、のぼせた体を休め、鯛バーガーを食べ、(ここでも懲りずに鯛)ストレッチをして、ピアッサーでピアスを開けた。注射が大の苦手のわたし。それなのに温泉の三日前くらいから開けたい衝動に襲われ始めた。開けたら強くなれそう。注射が苦手なわたしが、体に穴を開ける。考えただけで謎にパワーがみなぎっていた。だから、いつもと違う非日常的極上空間でパワーを強める儀式をしようと考えついて、ピアスを開けた。じんじんって二回しただけで痛くなかった。

浴衣を着て年相応にテンションが上がって、自撮り祭り。笑

だけど、着方があっているかはわからなかったから外出はしなかった。

時に大胆で時に小心者のわたし。

 

実は旅行二日前くらいから風邪気味だった。それゆえ寝るときに鼻が詰まって窒息して寝れない日々を過ごしていた。

温泉では鼻通るでしょ!と謎の自身とともに出かけた朝。

まあ、通らないよね。死にそうになりながら、ほぼ気絶するように眠り、息苦しさで目覚めた。せっかくの癒し旅行の思い出の内、残念なところはこれくらいかな。

 

ホテルのチェックアウト後、湯築城跡(今の道後公園)に向かった。行きたいところの一つだった。今の時期は梅が咲いており、曇り模様から無事晴れてくれたおかげで、春の一足早い到来を感じながら、のんびりとお散歩した。松山市を見渡せる展望台があり、上った。鳥頭のわたしは階段を上っている途中で、「ああ、階段苦手じゃんわたし…」と思い出す始末。こらえて上りきった先には爽快な景色が広がっていた。温泉街や山、高い建物がたくさんある中で、一番奥に松山城が同じ目線にあった。松山城に行く時間はなかったから、次来るときは松山城に行きたいな、ロープウェイを使って。

 

湯築城跡には武家屋敷があり、ここは最も行きたいところだった。今にも動き出しそうな作り物の武士の人たちがいて、思わず挨拶をしてしまった。「こんにちは~失礼しまーす…」

武家屋敷のすぐ横にある湯築城資料館にも行ってみた。中にいたおじちゃんが展示物の一つの、「最近見つかったんですよ。猫の足跡がついたお皿」とマニアックなものを教えてくれた。「写真も撮っていただいたらよいのでね」と言ってくださり、激写した。湯築城跡(道後公園)のミニチュア立体地図のようなものがあり、これは興味深くて面白かった。

さんざん満喫した後、そろそろお土産を買いに道後温泉のほうへ戻らなければという時間になった。家族へのお土産で道後プリンを買ったとき、「お持ち帰りの時間はどのくらいでしょうか」と聞かれ、「5時間くらいです」と答えると、プリンが3つ入るかわいいデザインの保冷バックをすすめられた。250円で結構値段貼るなと思ったけど、ほかにどうしようもないから結局買った。ちょっと悔しい。

他にも祖母への誕生日プレゼントや、お土産を買ってから、路面電車に乗り、列車に乗り換え帰路についた。

 

心の中で「ばいばい道後、また来るね道後!」と叫びながら。

 

片道3時間程度の列車に乗りとっても充実した2日間だったなぁ。

旅行から帰るときのなんだか虚しくて寂しい気持ちについて考えていた。

 

代わり映えしない日常と、環境も行動も気持ちも変わる日常、その二つをただ、「現実と理想」と無意識に分けてしまっていたから、そのギャップに心を弱くさせられるのかもしれないと思った。

お家で過ごしたり、バイトに行ったり、友達と話したり、学校に行ったり、、これら全部が現実で日常である。その中に new! という感じで、愛媛 に行って旅行したことも現実であり日常の一部となった。現実と日常を満喫できた。そう考えると、代り映えしない日常もすきだな、旅行に行った思い出も日常につながるもので夢じゃなかったんだ。と思えている。

 

ちなみに、家族にも、お土産を渡しに行った方も、全員に、「ほんとに一人で行ったの?!」と問われた。「大学生女子の一人旅行」という文言は、恋人とお泊りするときにも使われるみたい。

わたしには縁のないことだ

あー楽しかった

明日からバイト入れて、お金貯めて、次はどこへ行こうかな。

変化のサインを受け止める強さ

やさしくほほをなでる心地よい風、今にもはじけそうな桜のつぼみ、窓を開けると飛び込んでくる花粉。なんて華麗な登場なのだろう。

 

こんな春の便りがくると、高校時代はこれから身を置く場所に対して、得体のしれない不安に駆られていた。

期待はない。そのうえ、準備も終えられていないのに、時は無情。心が追い付かないまま、色の変わった日々に翻弄されていた。

環境の変化に難なく対応できる人、むしろそれを楽しむ人、気持ちが置いてけぼりになってしまう人、いろんな人がいる。

高校生のわたしは、心が変化に追い付けなかった。

「変化を楽しむ」

こんな言葉に何度か出くわした。

「そんな恐ろしい肝っ玉の据わった人間がいるんだなぁ。」と他人事だった。

自分と離れすぎたその言葉は頭からすぐに消える。

 

もがき、自分自身で鞭で打つように過ごし、そうやって春を乗り越える学校生活だった。

 

 

それが今では、どんな春にしてやろうか、と、強さと希望と期待、をもって春の便りを受け取るわたしがいる。「変化を楽し」んでる!

 

なんでだろう、と考えた。

 

きっと、人との出会いを通して、時間や季節が流動的なように、人の心や思考も流動的であることを思い知ったから。

その「変化」を恐れていたころのわたしは、「変化」がこんなにありふれていることに気付いていなかったんだろう。

 

もう一つの発見は、「変化の前には必ずサインがあり、背景にはストーリーがある」ということ。でもこの半分は、わたしにとって、既知のことだった。

毎年春の便りを受け取っていたじゃないか。わたしもそのストーリーの登場人物の一人。臆することなんてない。

 

 

こうやって、変化のサインに気づいたときの受け取り方が変わった。

 

高校生までは、怖くておびえた状態でサインがやってきて、それから目をそらしたまま時が進んでいた。

 

今は、自分の未熟な心を知ったからこそ、おおらかにどんと構えて、サインを両手で受け止められるくらいに強くなった。

 

さて、明日はどんな彩にするかな。

 

 

今週のお題「小さい春みつけた」